10月20日、子供の運動会がありました。
子供達と先生方には少し申し訳ないのですが、令和の時代の運動会は、昭和の運動会を経験している私のような世代にとっては、実に味気ないものに見えてしまいます。
昭和の運動会は、「午前の部 → 昼食 → 午後の部」という日程でした。
学年ごとの徒競走、綱引き、玉入れ、騎馬戦、組体操、男女フォークダンス、全学年男女別混合紅白リレー等々、種目は多岐にわたったものです。
最後の種目はリレーで、全学年から選抜された足の速い生徒による紅白対抗リレー。
リレーが運動会のトリを飾る花形だったような思い出があります。
また、午前の部が終わると、家族でお弁当を食べるのですが、これが運動会の楽しみの一つでもありましたね。
「騎馬戦」や「組体操」は、身体の接触がある為、身体が未発達の小学生にとっては怪我に繋がりやすく、必ずしも安全を確保できないデメリットがあるので、種目から排除されたのでしょう。
これに対し、令和の運動会は午前中で終了。
種目は、各学年の徒競走と団体競技のみ。
全体として、勝ちと負けの差がなるべく生じないような種目編成になっているような気がします。
こうなると、緊張感があるのは、我が子の徒競走くらいなもので、正直に言うと、残りの競技は実につまらなく感じてしまうのです。
勝ち負けの違いを経験することもなく、淡々と各種目を消化するだけの運動会で、生徒たちは何を学ぶのでしょうか?
運動会での「勝った」「負けた」には、大切な意義があると思います。
一例として、スポーツでは、勝者は敗者の健闘を称え、敗者は勝者を祝福するスポーツマンシップを学びます。勝っても負けても、そこには今以上に飛躍するための意義が存在するわけです。
だから、勝敗にそれ程の深刻度が問われない小学校の運動会などでは、勝ち負けの差がついて良いのです。
勝ちは成功体験として子供の自信になり、負けは次に勝つためには何が必要かを教えてくれます。
誰でも、社会に出れば、仕事、私生活を問わず、勝ち負けで判定される状況に身を投じることになります。
必ず将来において直面する事を、子供時代にある程度は経験しておくに越したことはないはずです。
子供心を傷つけないことに配慮し過ぎて、将来必ず直面する勝ち負けから目をそらすのは、賢明な策とは言えないように思えます。
運動会が子供にもたらす意義。
令和の運動会には、子供が将来に向けて準備する為の何かが足りないような気がしてなりません。
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